山伏①

かなりの大昔に、山伏の体験修行をやったことがあります。

いまでこそ滝行や写経といったプチ修行をやっているところは増えましたが、その当時、一般に開かれたものはほぼ見当たりませんでした。

 

最初は単なる好奇心でした。

身近ではあったけれど知識もなく、ほら貝のイメージしかなかったのです。

県内外の老若男女50人弱、山の宿舎での2泊3日とかなりハイレベルです。

 

山伏は山駆けが基本です。

その名の通り、山を駆け巡るのです。

白装束に着替え、頭に白い布を巻き、杖を持った私はとんでもない世界へ飛び込んだのでした。

 

12月

忙しい日々が続きました。

さすがに12月という感じです。

 

不確かな未来が怖くて、不満だらけのはずの現状を変えることが出来ません。

多くの人はそうなのだろうと思います。

現状維持の行きつく先は、何も維持できていないまま下がっていく未来なのです。

下りのエスカレーターを、私は必死に上がっていこうとしています。

少し疲れて休もうとすれば、結局スタート地点に下がって行ってしまうのです。

 

現状維持するにも、足を動かし続けなければいけないのです。

違う場所に行きたければ今よりもスピードを上げなければなりません。

焦って足を踏み外すこともあるのでしょう。

 

あきらめても、あきらめなくてもいい。

くさらずに次の一歩を踏み出すのです。

ミス

仕事が上手くいっていません。

仕事に慣れ始め、ミスが目立つようになりました。

接客で言っていいことと、言ってはいけないことの境目がわかりません。

 

今の社会は、親身になればなるほど、親切にすればするほど自分の時間や感情が削られていきます。

余計なことを言えば、結果的に自分の首を絞めることになります。

マニュアル的に接すれば冷たいと言われ、踏み込んでも私の収入には直結しないのです。

 

おそらく疲れもたまってきたのでしょう。

慣れてきた油断もあります。

 

自分の時間を取り戻そうと思います。

カミングアウト

カミングアウトをするときに、相手に何を求めるのか?

友達と、気軽な自虐を披露するのとは違います。

自分のネガティブな情報を相手に告げるときに私は何も求めません。

ただただ自分の罪を告白する犯罪者のようです。

 

同性愛や、被差別な地域、がんなどの病気もそうかもしれません。

何も変えられないのです。

悪いことでもありません。

それでも否定されたり、誤解されたりします。

 

努力しても変えられないことに、「こうすればいいんじゃない?」と、改善点を提示されてもむなしいことです。

当事者以外に「わかるー!」と安易に共感されても違う気がします。

本当は、「あなたはあなたのままでいい」と受け入れてほしいのです。

もしわからないのならば、わからないと言っていいのです。

「そうなんだね」って言ってもらえれば充分なのだと思います。

 

 

言葉

自分に必要な言葉が引き寄せられる瞬間があります。

ふと付けたテレビの中で。

立ち読みした本の中で。

友人とのおしゃべりの中で。

 

昨日と今日、たくさんの言葉をもらうことが出来ました。

 

私もみんなにプレゼントしたくなりました。

私の中には闇があります。

嫉妬、憎悪、怒り、狡さ、嘘。

それらを持つことは人間として当たり前なことだと思います。

今まで、自分の中の闇を少しでも小さくしようと、しなければならないと思っていました。

 

闇にのまれ、自分の中にこんな醜い部分があるのかと、絶望的な気持ちになりました。

 

私は、闇を知っているから闇の中の人間が見えるのです。

暗さに慣れた私の目は、闇の中で抜け出せずにいる人がわかるのだと思います。

 

私にも光は見えません。

暗闇にいる人と手を取り合い、暗闇の恐怖に耐えながら目をこらしていけば、お互いの顔は見えてくるでしょう。

すすむべき道が見えてくるかもしれません。

 

 

日々

私は発達障害者として日々悩みながら生きています。

新しい職場でのミスに対してこんな言葉をかけられます。

 

忙しいとパニックを起こす。

一つのことしかできない。

とんでもない行動をする。

落ち着いて。

 

今までの人生で何度も何度も聞いてきた言葉です。

発達障害の特性であることは身に染みてわかっています。

そうならないように気も張っています。

残念ながらこういった特性が出てしまうのは、忙しかったり疲れていたり、ベストな状態でないから起こることでもあります。

だからといって、それを言い訳にできないことも承知しています。

 

私は発達障害と診断されるギリギリの年代です。

おそらく私より上の世代の人たちは、問題行動や特性がでても、加齢や生活習慣病といったものと見分けがつかなくなるからだと思います。

私もいずれ、老化や認知症の波に飲み込まれていくのかもしれません。

そうだとしても私は私の人生を生き切りたいのです。